松蔭大学資料館
資料館の沿革
本学は、教育基本法及び学校教育法の趣旨のもと、吉田松陰の実学精神に基づく「知行合一」を校是とした創設者の建学精神に則り、広く教養と専門性を養うと共に、社会で活躍するために必須の「ホスピタリティ(他者を思いやる心)」を基盤とした人間形成を図り、良き社会人として心身共に健全な人材の育成をするために資料館を開設した。
資料館の目的
資料館は、大学における教育研究の使命を達成するために本学の校是にある吉田松陰関係資料や文献等、及び本学園の歴史資料、各学部・学科の必要な資料の収集、保管、展示並びに調査・研究を行い、併せて教職員、学生及び一般の利用に供することを目的とする。
吉田松陰展示
吉田松陰の略年譜を紹介して本学の資料館を理解して戴きたい。とくに松下村塾での命題「知行合一」すなわち、知識を付けることは行動することの始まり、行動することによって知識を完成させる。この基本が彼の一生涯の行動であり全て「知行合一」であったと理解できる。
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吉田松陰坐像
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吉田松陰「留魂録」
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吉田松陰関連蔵書
吉田松陰略年表の紹介
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1830年天保元年(1歳)8月4日、長門国萩城下松本村団子岩に生まれる
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1834年天保5年(5歳)叔父吉田大助の養子に迎えられる
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1835年天保6年(6歳)吉田大助没し吉田家を嗣ぐ
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1839年天保10年(10歳)初めて明倫館に出仕して兵学を講義
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1840年天保11年(11歳)藩主毛利慶親に「武教全書」を進講
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1848年嘉永元年(19歳)後見人を解かれ独立の師範となる
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1849年嘉永2年(20歳)御手当御内用掛を命ぜられ藩内各地の海岸を巡視
門人益田弾正らを率いて城東羽賀台で演習を行う -
1850年嘉永3年(21歳)兵学研究のため九州各地を遊歴、平戸に約50日滞在
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1851年嘉永4年(22歳)藩主の参勤の列に加わって江戸へ遊学、
佐久間象山・安積良斎らに師事し宮部鼎藏ら諸国の青年らと交流、
過書手形を持ず宮部・江幡と東北遊歴途につく -
1852年嘉永5年(23歳)亡命の罪・士籍、世禄剥奪、実父杉百合之助の育となる
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1853年嘉永6年(24歳)藩より10年間の諸国遊学の許可のもと江戸へ出る
ペリー来航を聞き、浦賀に駆けつけて黒船を観察
「将及私言」などの上書を藩主に提出、藩の重臣ら避難
佐久間象山の示駿により・ロシア鑑乗艦のため長崎に赴くが
プチャーチン一行と行き違いになり失敗する -
1854年安政元年(25歳)門弟金子重之輔と下田港に碇泊中のアメリカ鑑に乗り組もうと
小舟で近づくも拒否・失敗、自首・江戸伝馬町牢下る
幕府の断罪により自藩幽閉、帰萩後野山獄投ぜられる -
1855年安政2年(26歳)野山獄中、同囚に孟子の講義を始め、出獄後杉家幽閉
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1856年安政3年(27歳)勤王僧黙霖と手紙による論争、討幕論に傾き松下村塾を主宰し
子弟の教育を始め梅田雲浜訪来する -
1857年安政4年(28歳)塾生が増え、杉家の宅地内の小舎修理、講義する
妹文を門弟久坂玄瑞に嫁がせる。高杉晋作が門弟になる -
1858年安政5年(29歳)家学教授のため門人を引見することを許される
江戸にある門弟松浦松洞に手紙で水野土佐守暗殺を指示。
大原三位を長州に下向、討幕の兵を挙げる計画する
老中間部詮勝を要撃門弟17名と血盟、藩・投獄の命下る -
1859年安政6年(30歳)参勤途上の藩主を伏見で待ち受け、討幕の挙兵にもちこむという
「伏見要駕策」に熱中するが失敗、門弟たちの多くは過激に走る師を敬遠、
幕府より長州藩へ松陰東送の命下る。萩から江戸にむけ檻送
父百合之助、兄杉梅太郎も連座して職剥奪、謹慎
伝馬町の牢に下るも、10月27日、斬首に処される
桂小五郎・尾寺新之丞・伊藤俊輔(博文)ら遺骨を受け取り、
小塚原回向院下屋敷常行庵に葬る
参考文献:「吉田松陰全集」大和書房、昭和45年
松蔭大学資料館の開館日と休館日
開館日
開館日時 月曜日から土曜日。10時から15時
◆入場無料
休館日
- 日曜日及び国民の祝日に関する法律で休日とされた日
- 本学の創立記念日(4月18日)
- 8月10日~9月中旬(夏期休館日)
- 12月24日~翌年1月初旬まで(冬期休館日)
- 本学の諸行事により変更する時は、前もって掲示する
受付
松蔭大学厚木ステーションキャンパス1階 事務室
電話:046‐296‐1511
松蔭大学資料館位置図
所在地
松蔭大学厚木ステーションキャンパス4階
(神奈川県厚木市中町4‐3‐1)
電話:046‐296‐1511